嵯峨野といえば、落柿舎。 でも、ここってどんなところか、ご存知ですか?
隅っこにコスモスが咲く畑の向こうに見える、かやぶき屋根が、落柿舎です。
落柿舎は、『奥の細道』などで知られる江戸時代の俳人、
松尾 芭蕉の弟子たちのうち10人に数えられる(これを
松門十哲といいます)、
向井 去来の草庵でした。こちらへ芭蕉翁がきたのは、まだ46才のころ。
二度目に来た、数えで48才のときに『嵯峨日記』を書き上げたそうです
(松尾 芭蕉が書いたのは『奥の細道』だけじゃありません^^)。
現在、観光客が訪れると、庵主が在宅であるしるしとして、蓑と笠がたて掛けられています。
門のすぐ左に、柿の木があります。もうほとんど実は残っていませんでした。
中には、芭蕉たちが描かれた衝立があり、お庭には大輪の菊が見えました。
実のところ、現在の落柿舎に松尾 芭蕉は来たことがないのです。
* 落柿舎 → JR東海の「そうだ 京都、行こう」の該当ページはコチラ!
じつは、いまの落柿舎は、明治二十八年に、嵯峨の旧家小松 喜平次が、近くにあった弘源寺の旧捨庵(すてあん)が他に売却されてすでにこわされそうとしていたのを買うけ、修理して再建したものである。この旧捨庵は、いわば落柿舎の第二世である。
去来の落柿舎は明和七年(1770年)に、すでになくなっていて、ただ俳諧の名跡としての名だけが残っていた。
これをなげいた井上重厚(俳人)が、菊亭大納言の援助によって、菊亭家の庭の腰掛茶屋の一軒をもらいうけ、これを北嵯峨小倉山の山本村にある弘源寺の地にうつして、落柿舎と名づけた。この土地が、いまの落柿舎のあるところだ。ここは嵐山にむかい、しかも柿の古木数株があって、いかにも、去来の、「柿主や梢は近きあらし山 」の句のおもむきにふさわしいというので、井上はこの地をえらんだといわれる。
しかし、いつしかこの再建落柿舎も弘源寺の所有となって改築され、同寺の老僧の隠居所となって捨庵とよばれるようになってしまっていた。それが、さきに述べたような曲折をへて、明治二十八年に大修理をおこない、いまの落柿舎になった。
― 松本 清張・樋口 清之 著『京都の旅 今日の風土記1』 光文社刊
はい、ということです。この本は古本屋さんで100円で初版を手に入れたのですが、
なかなか良いトリビアが載っていて、さすがは取材の綿密な松本清張と、
歴史・考古学の権威である樋口清之の共著だけあると思っています。
地図も折り込まれています。前の持ち主が新聞記事まで挟み込んでくれていました(笑)。
帰り道、こんなお土産屋さんを発見♪
落柿舎の名物である、柿のかたちをした土鈴をつくっていらっしゃいます。